Wizard mantle





 日が落ちかかり、影が長く伸びる頃。子供たちはまたね、と手を振りながらそれぞれの家に駆けて行く。ハーナウの村の家々から、おいしそうな夕飯の匂いが漂い始めていた。名高きグリム兄弟の住まう家からもそれは変わらない。
 長兄のヤーコプは、料理をするには不向きの長い髪を一つにくくって、次々と夕飯の準備を進めていく。次兄のヴィルヘルムはそうやって出来あがった料理を皿に盛り付けてはテーブルへと運んでいく。研究にせよ、料理にせよ、彼の名補佐役ぶりに変わりはない。
「もうじき帰ってくる頃だな」
「本当だ。二人ともお腹を空かせてくるだろうから、急がないとね。
 特にあの娘は兄さんの作るハンバーグが大好きだから」
 毎日でも食べたいって言ってるからね、と楽しげに忍び笑いを漏らした。ヤーコプは肩をすくめて、フライパンの上でジュウジュウと肉汁が音を立てるハンバーグに集中する。折角のメインディッシュを焦がしてしまっては元も子もない。
「いくらあの娘の頼みでも毎日は駄目だな。栄養が偏る。…とはいえ、嫌いな玉葱が入っていてもきちんと食べる数少ない料理だからな」
「そうだね、オニオンスープは絶対におかわりしないから。玉葱が入ってても喜んで食べる料理を、他に開発するかしかないんじゃないかな」
「他人事のように言うが、別段その役目はお前でも構わないと思うぞ、ヴィルヘルム?」
「う〜ん、考えはするけど作るのは兄さんに任せるよ。そっちの方が美味しいし、ヘンリエッタも喜ぶから」
「……ただいま」
「あ、帰って来たね」
 玄関から聞こえてきた声に、ヴィルヘルムはいそいそと可愛い妹と弟を出迎えに行く。ひとり台所に残ったヤーコプは首を傾げた。いつもならルートヴィッヒ以上に元気にただいまを言うヘンリエッタの声は聞こえなかった。
「おかえり、二人とも。手を洗っておいで…?ヘンリエッタ、どうしたの?」
 ヴィルヘルムもまた、首を傾げて問いかける。ルートヴィッヒはどこか呆れたような様子で、ヘンリエッタは俯いて黙ったままだ。一瞬二人がケンカでもしたのだろうか、と考えを巡らせもしたが、妹と弟はしっかり手をつないでいる。ケンカという訳でもなさそうだ。
「ヘンリエッタ、怪我でもしたの?それとも具合でも悪い?ヘンリエッタ?」
「…兄さん、落ち着いて下さい」
「落ち着け、ヴィルヘルム」
 おろおろと、矢継ぎ早に質問する次男を制したのは戸惑い気味の三男と、冷静な長男の声だった。


 いつもより静かで、いつもより味気ない夕食が終わり、ヘンリエッタは早々に部屋へ戻った。普段ならその日一日何があったのかを、ニコニコとしながら喋るのに、結局彼女が口に出したのはいただきます、とごちそうさま、の二言のみだった。
 それでも好物であるハンバーグを残さず食べきったことが、せめてもの救いというべきか。ヤーコプはそれで多少安心したが、ヴィルヘルムからすればおかわりをしなかったことで心配になったらしい。部屋に戻るヘンリエッタに付き添った後も、その部屋の前でうろうろと左右行ったり来たりしていたところを、見かねたヤーコプから連れ戻されたばかりだ。
 そのヴィルヘルムは今、落ち着くようにと供された紅茶を前にして椅子に座っている。同じように食堂の椅子に座っているルートヴィッヒと自分の分を淹れて来たヤーコプも席に着く。それぞれがカップに口を付け、落ち着いたのを見計らって口を開いた。
「で、何があったんだ?ルートヴィッヒ」


 その夜、ヤーコプはランプを片手に自分の部屋を後にした。ドアを閉めるときはそっと静かに、廊下を歩くときも、なるべく音を立てないように。夜の静寂を壊さないよう注意を払う彼の後ろから、パタパタという小さな足音と幼い声が呼んだ。
「ヤーコプ兄さん?」
「どうした、ヘンリエッタ。起こしてしまったか?」
 振り向けば、薄ぼんやりとした明かりの端に大切な妹の姿。すぐ傍まで軽く駆けて来た少女と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
 小さな妹や弟に接するとき、彼はなるべくそうしていた。ヤーコプは彼らよりずっと年長で、それ故に彼らを護り、時に叱り導くことが出来る。だが、そうであるが故に彼らと同じように物事を見れず、ともすれば彼らが何を喜び、何を怖がり傷つくのかが分からなくなってしまう。そうなってしまわないように、せめて目線だけは、と、彼らの心に寄り添おうとの行動であり、または寂しさの表れかもしれない。
 ヘンリエッタはヤーコプからの問いかけにふるふると首を振る。眠たげに目元をこする様子もないので本当のことだろう。眠れなかったの、と言うヘンリエッタの頭を撫でて、その手を引いて歩きだす。
 ならホットミルクを淹れてあげよう、とヤーコプが言えば頷いて小さな手でぎゅっと握り返した。


 ヘンリエッタは食堂の椅子に座って悩んでいた。自分の手を引いてくれた兄は今、奥の台所でミルクを温めている最中で少し離れている。
 代わりにヤーコプのマントにくるまってひとり大人しく待つ。日が落ち、ほんの少し冷え込んできたせいでくしゃみをしたヘンリエッタに、ヤーコプが羽織らせたものだ。
 濃い紺色の上等な布地に、白い毛皮のふさふさした縁飾り。長身のヤーコプが纏うだけあって、ヘンリエッタをすっぽりと包みこんでもまだ余裕がある。ヘンリエッタと同じくまだ小柄なルートヴィッヒは勿論、大分頑張って無理をすれば、ヴィルヘルムも隠れることが出来るかもしれない。
 それはそうと、ヘンリエッタは悩んでいた。夕方、ルートヴィッヒに引っ張られながら帰って来て、おいしいハンバーグをおかわりもせずに、悩める子羊と化していた。
 ちらりと台所の方を見ると、見計らったようにヤーコプがカップを両手に現れる。どうした、と首を傾げながら優しく尋ねられて、ヘンリエッタはこの悩み事をヤーコプに打ち明けてしまおうか、迷う。
(ううん、ルーイにあんなに馬鹿にされたんですもの。だめ。
 ヤーコプ兄さんは優しいし、頼りになるからそんなことないだろうけど…)
 それでも、たとえ心の内ででも呆れられたりするのは嫌だ。結局ヘンリエッタは首を横に振った。
「ほら、熱いから気を付けなさい」
「うん、ありがとう」
 柔らかな湯気の立つカップをヘンリエッタの前に置き、ヤーコプは向かい側に座った。カップの中のミルクに、二度三度と息を吹きかけてから口を付けると、心地よい甘さと温かさが広がる。
「兄さんは紅茶なのね」
 自分の手の中にあるカップの中身は真っ白で、兄が手を添えたカップは澄んだ琥珀色で満たされていた。何とはなしにそれを指摘すると、ヤーコプは頭をすっきりさせるためだと答えた。これから地下の研究室に籠り、遅くまで調べ物や実験をするつもりだという。
 邪魔しちゃったかしら、と少し心配になりヘンリエッタが口を開く前に、研究はとても大事なことだ、と己の手元、僅かに波立つ水面を見つめてヤーコプは呟いた。
「だが、こうして可愛い妹とお茶を飲んで、相談にのることはもっと大事なことだよ。
 で、誰にするか決まったのか?ヘンリエッタ」
 穏やかにかつ威厳に溢れ、さらにどことなく悪戯心の滲み出る、という大変器用な、世界広しと言えどこの兄しか浮かべることの出来ないような微笑みでもって見つめられ、ヘンリエッタは真っ赤になって固まった。
 その隙にヤーコプはカップを口に運び、それにつられるようにホットミルクを飲み、ほっとしたところでヘンリエッタは大声が上げた。
「どどど、どうして兄さんが知ってるの!?」
「ルートヴィッヒから聞き出した」
「ルーイの馬鹿ぁ!!」
 思わず、なのだろう。カップをやや乱暴にテーブルに置いて叫ぶ。幸い中見が減っていたので零れることはなく、火傷の心配もない。
 人差し指を一本だけ立てて自らの口元に当て静かに、と促すと素直な妹は慌てて口を押さえる。その愛らしい様に頷きながら、夕食後弟から聞き出した事の顛末を思い出す。


 ハーナウの村は自然が豊かだ。だが逆に言えば、それ以外の遊び場はない。そんな環境の中、村の子供たちは幼いながらに様々な工夫を凝らして遊んでいる。その工夫が発端と言えなくもない。
 無人島に、ひとりだけ連れて行くとしたら誰?
 移りゆく季節以外に変化の乏しい村に飽いた子供らしい、無邪気なもしもの問いかけ。
 子供たちが次々に、親や兄弟、友達を挙げていく中、ヘンリエッタが答えたのは―。
「ヤーコプ兄さんとヴィルヘルム兄さんとルーイ!!」
 満面の笑顔と共に、だったらしいが当然、他の子供たちから認められなかった。ひとりだけ!と念押しされて一生懸命考えたものの決め切れず時間切れ。結局明日までの宿題、ということになった。


「じゃあ兄さんだったら誰を連れて行くの?」
 やや恨めしげにヤーコプを睨みながらヘンリエッタは訊いた。十分予測していた質問に、そうだな、と考え込むふりをする。
 頬をふくらませた上目遣いも、返事を聞き逃すまいと身を乗り出す様も、微笑ましいものでしかない。それを気取られないよう、しばらく真剣さを装ってから口を開いた。
「ヘンリエッタ、お前だな。
 お前はお転婆だから心配で仕方がない」
 照れて、嬉しそうに頬をゆるめたものの、すぐに寂しそうな顔になる。嫌か、と訊けば首を横に振った。
「兄さんと一緒なら、無人島だって怖くないもの。
 …でも私はみんなと一緒がいいの」
 調査の為、ヤーコプとヴィルヘルムが家を空けることが少しずつ増えて来た。勿論、村の人々に二人のことはよくよく頼んではいるが。
 心を偽ることがない甘えたがりな娘だが、それでもルーイがいるから大丈夫と笑って、帰ってくれば真っ直ぐに甘えてくれる。
「ああ、俺もそうだよ」
 段々と、人の悪意によって穢れて行く世界。村の外に出れば嫌でもそれが身に沁みる。
 それでも、この娘が、家族がいれば。何物にも代え難い宝だと。そう強く思う。
「でも、ヴィルヘルム兄さんもルーイも一緒じゃないわ」
 兄さんは、私って言ったから、と俯いて小さく呟いた。細い肩を落とし、旋毛を向ける頭に手を伸ばす。ふわふわした髪と手袋を通して温もりが伝わるような気がした。
「いいや、みんな…ヴィルヘルムもルートヴィッヒも一緒だ」
「でも」
「二人は後から追いかけて来るからな」
「え?」
 ヤーコプの言葉が意外だったのだろう。ヘンリエッタは不思議そうに見上げてくる。そのまんまるになった目と対照的に目を細めて、身を乗り出し内緒話をするように声をひそめた。
「無人島に連れて行っていいのはひとりだけ。後からついていくのは駄目だとは言っていないだろう?」
「え、で、でも…絶対みんな、そんなの駄目!って言うわ」
「そう、だから秘密だ」
 そうすればバレないだろう、と笑う。兄さんってズルい、と呟いた口元にも小さな花がほころぶように笑みが浮かぶ。
「家族と一緒にいたい、という尊い願いを叶える為だ。きっと神様も許してくれるさ」
 嘯く兄にヘンリエッタは声を出して笑って、ヤーコプはもう一度人差し指を立てた。静かに、と、内緒話を示す合図のように。少女もまたそれ倣い、お互い声に出さずに笑い合った。


 ヤーコプと手をつなぎ、部屋へと戻るヘンリエッタの足取りと気持ちは、行きとは比べものにならない程軽くなっている。こんなに月が高い時刻でなければスキップをしたい程に。さすがに兄から再三静かに、と注意されたくはないので我慢するが。
「おやすみ、ヘンリエッタ」
「おやすみなさい、ヤーコプ兄さん。
 それと、ありがとう」
 部屋の前、ヤーコプがしゃがんでヘンリエッタの頬にそっとキスをする。ヘンリエッタもまたちょっと背伸びをしてヤーコプの頬に唇で触れた。
 それから急いで、床に着かないように体に巻き付けていたマントを解いて、ヤーコプの肩に羽織らせる。そうする機会はヤーコプがしゃがんでいる今しかない。
「すまないな。
 さぁ、もう遅い時間だ。早く寝なさい」
「うん。でも兄さんも遅くまで無茶したら駄目よ」
 苦笑いをしながら、分かったと言って去って行くその背を見送ってヘンリエッタはベッドに入る。
「私が着るとあんなに大きくても、兄さんだとすっごくぴったりなのよね。
 でもかくれんぼに使えそうね!」
 そこまでひとり呟いたとき、ふと名案が浮かんだ。
「とうとい願い事の為だもの、きっと神様も許してくれるわ。
 そうでしょ、兄さん」
 悩みが無くなったことと、甘いホットミルクが効いたのか、少女の意識はゆっくりと穏やかな夢に沈んでいった。


「ただいまっ!」
「…ただいま」
 昨日と同じくらいの時刻に明るい少女の声が響く。その声にほとんどかき消されるように少年の声も。
 その声を台所で聞いたヴィルヘルムはほっと安堵の息を吐いた。
「良かった。今日はちゃんと答えられたみたいだね」
「そのようだな」
「……でも誰って答えたのかな、兄さんは気にならない?」
 そわそわと、人に訊いておきながら自分が一番気になっているらしい弟の手から皿を奪いながら、ヤーコプは肩をすくめた。
「あの娘が誰を選ぼうと、俺はついていく。成人するまでは兄として当然の権利だからな。
 それよりヴィルヘルム、お前は今日皿やグラスは持つな」
「え、どうして?僕も手伝うよ」
「どうしても、だ。お前は…そうだな、フォークやスプーンを頼む。落としても割れないしな」
 ポツリと言った言葉は聞こえなかったらしいヴィルヘルムは、不思議そうにしながらも大人しく人数分を手にし食堂へ向かう。安心してその背を見送りながら、ヤーコプは先程のヴィルヘルムの質問を思い返す。
『誰って答えたのかな?』
 ルートヴィッヒ。ヤーコプの考えではそうだった。
 ヘンリエッタには後から誰を選ぼうと後から追いかけるとは言ったものの、選ばなかった二人とはしばらく離れることになる。
 そしてヘンリエッタは多少とはいえ、上の兄二人がいない状況に慣れ始めている。
 だが、きっと、ずっと一緒で、それこそ離れたことのないルートヴィッヒと離れるのは想像もつかないだろう。
 だから、ルートヴィッヒを選ぶだろう、と。
「考えすぎか…」
 実際そうであったときに傷つくことがないように、予防線を張っているだけのような思考に苦笑する。小さく頭を振って夕飯を盛った皿を手に食堂へ向かう。
「…に一緒にいくなら、あ、ヤーコプ兄さん、ただいま!」
「おかえり、二人とも」
 皿をテーブルに置きながら、ヴィルヘルムを見ると未だに手に食器を持ったままだ。ついでにルートヴィッヒはどことなく不機嫌、というより沈んだ様子だ。
 さて、どちらから指摘しようかと、迷っている間にヘンリエッタが手をポンっと打った。
「無人島に連れて行くなら、ヤーコプ兄さんがいいわ、言ったの!だって料理が上手ですもの!!」
 予想外な答えに目を見開いたヤーコプに向かって、笑顔を向ける。人差し指を唇に当てながら。


 その後、ヴィルヘルムがフォークとスプーンを落とし、派手な金属音を立てたこと。
 本日のグリム一家の夕食は次男と三男の頭上に、暗雲が立ち込めていたことは言うまでもない。


「ごちそうさま!」
 食器を手に台所へ向かうヘンリエッタを追うように、ヤーコプも席を立つ。食堂にはやたらと食の進みの遅い二人の兄弟が残された。
「ヘンリエッタ」
「なぁに、兄さん?」
「で、俺を選んだ本当の理由は何だ?」
 くるりと振り向いた少女は、また秘密の合図をする。ヤーコプもしゃがんでから同様にして応えた。
 兄と妹は悪戯気に輝く瞳を合わせ、微笑みを交わす。
 ヘンリエッタはヤーコプのすぐ傍まで来ると、マントの下に潜り込んだ。そうすれば小さな妹はすっかり姿が隠れてしまう。
「ヘンリエッタ?」
 てっきり内緒話を耳打ちされるものだと思ったヤーコプは珍しく、面食らったような顔をして呼びかける。その声に応えるようにマントの下から顔だけ出したヘンリエッタが、口の周りを両手で囲って、ヤーコプの耳にこっそり告げる。
「兄さんのマントだったら、ルーイやヴィルヘルム兄さんも隠して一緒に行けるでしょ?いい考えだと思うの!」
「全く…お前も随分、ズルい娘になったな」
「家族と一緒にいたいだけだもの!」
 周りを明るく照らす、太陽のような笑顔を見せヤーコプにぎゅっと抱きつく。弾けるような笑い声。
「そうだな」
 純粋で甘えん坊な可愛い妹。
 そんな少女の願うささやかな幸せなら、きっと叶うだろう。
 その為のほんの少しのズルなら神だとて絆されるだろう。
 そんなことを思いながら、その温もりを愛おしさとともに抱き締めた。



後書き
 …本当は、グリム一家が揃った家族団欒をしっかり書きたかったはずなのに。
 気付けば長男一人勝ち。
 タイトル「Wizard mantle」は魔法使いのマントの意味のつもりです。あくまでつもりです。
 whispering=内緒話とも迷いましたが…初志貫徹で。

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